読める読める読めるぞ文が読めるぞ
外出したので本屋に寄り、気になる本をめくって最初の数行を読む。数日前は読んでも文の意味がまったく取れず、単語を追うのみで英文でも読んでいるかのごとくだったが、今日は違った。誰のどの本を読んでみても、よくわかる! 日本語が読める!
ためしに知らない海外作家の、題名すらカタカナの呪文めいた未知すぎる小説をめくってもみたが、わかります! なにが書いてあるか!
わたしのPMSには文が読めなくなるという症状もあるようで、読み慣れている作家の本を再読しても、なにやらフワフワと脳が泳ぎニューロンは手を取り合わず、数ページであきらめてしまう。短気記憶力がおそろしくおとろえ、さっきの読点の前になにが書いてあったか忘れてしまうので何度ももどる、というような感じだ。これではまとまった文など読みようがない。
しかし話しことばで書かれたような日記や短文ならわからなくなるほどではなく、読書の代わりのようにTwitterに張りついたり、誰かのブログを読みに行ったりしていた。ときどきTwitterであっても難しいことをツリーでつなげて言っている人もいるが、Twitterなので読み流したとしても、これが理解できないなんてもったいない、みたいな気持ちにはならずに済む。
他人の文は読めなくても自分の文なら読めるので、過去の日記を再読したりもした。ここで言う日記ははてなブログのことではなく、手書きでつけている私的な10年日記のことである。一日に書けるスペースがA5で四行くらいしかないので、たいしたことは書けないが、その日に行ったところしたこと食べたものなどが残されている。しかしこの家に越してきてからはめっきり書かなくなってしまい、二年近く空欄が多い。四年前からつけ始めたので、いままでの約半分が空欄だ。
去年は、後日になって前の空いた数日へ「書かなかった」とひとこと記していた。数十日分、書かなかった書かなかったとくりかえしている月もある。10年分の同日が、見開きに連なっているタイプの日記帳なので、去年の欄になにも書いていないと一年後に間違えてずらしてしまうことがあるからだ。
しかし「書かなかった」の書き取りも一年分くらい溜まったとなるともう無理である。せめて打ち消し線でもひいて、わからなくならないようにしようか……はっ、なんか今、空欄を埋めるひらめきがやってきてしまった。
この上り調子のとき、わたしは新しい挑戦を思いつきやすい。だいたいあれ作ってみたい! のようなことで、うち10%に手をつけられればいいほうだが、勢いでなにかしら道具や材料を揃え、いざやろうとするとダメな時期にさしかかって延期、のち放棄、となるのがさらにそのうちの90%で、残り10%、つまり全体から見たら1%がよろよろながら始まり、さらに頓挫し、最終的にグニャグニャだが形になるのは全体の0.5%程度だ。もうその繰り返しに疲れた。なにも思いつかなくていいから、目の前にある山を少しずつ片づけてほしい。
とりあえず読めるぞ期なのだから、積んである本をはじから読みましょうね。