嵐をぬける・社交したい

昨日、自分の日記が急にとんでもない恥辱に思えてきて、Twitterに更新を投稿していたのを消してしまった。「おまえの書くものはつまらないし他人を不快な気持ちにさせるぞ」「周りを見ろよ、みんなおまえから目を逸らしているじゃないか」「いやいや透明すぎて見えてないんじゃない?」「全部おまえが招いたことさ」「自分からなにも供さないんだから返ってくるわけがないよ」「哀れだねえ」などと囁く、黒いシーツをかぶった古典的なオバケみたいなのがわたしを押しつぶそうとして、たくさん集まってきていた。23時過ぎにスーパーの植物性生クリームなロールケーキを食べたとたん、今度は睡魔がやってきた。耳栓をしてベットに潜ったらとてもよく眠れた気がする。夜のあいだは嵐のようだったのに、なにも聞かず夢も見なかった。そしてPMSの嵐も抜けたようである。起きたとき、猫がわたしの右腕を抱いて寝ておりかわいかった。朝はいくぶん気分が軽く、ラジオ体操も一瞬だけだがリズムを掴む。

PMSを抜けるや否や腰が重く痛いので、躊躇なく解熱鎮痛剤をのむ。わたしの場合はこの二錠でなんともなくなるのだから、体の痛みのほうがまだましだ。

 

人間との交流が急にしたくなる。しかしどこから手をつけていいかわからない。

恥ずかしながら、わたしにLINEをくれて個人的に交流してくれる人間は現在三人だけであり、一人は夫であと二人は学生時代の友人である。日記やなにかで誰かとどこかへいったと書いているとき、だいたい一人か、この三人のうち誰かと行っている。集団だと付き合う人というのはもうすこしいるが、そういう彼らと一対一で話すことはほとんどない。LINE以外の手法で連絡をとってくる人はいまやいないと言っていい(親くらいか)。

他に人間関係といったらTwitterで、しかし個人的な交流(DMとか、他人の見ていない場所での交流という意味で)をしている人は一人もおらず、他人同士がタイムラインで賑やかにやっているのを脇で見ている。Twitterでそれをやっていても「その場にいる人」として仲間に入れてはもらえないし、わたしは学生時代も「その場にいる人」としてしか人と交流してこなかった気がして、社交をしたくないとかふだん言っているけど、結局は単に社交のスキルがないんじゃないかと愕然としている。場に足を運び「居る」だけでけっこういっぱいいっぱいなのだ。会話する余力がない。

仕事をしていてその方面での社交が多ければ、日常はこの程度で十分だわと思いそうだが、無職にはそれがない。学生時代にできた数少ない友人と、家族としか交流しようがないのだ。新しく趣味でも? と思っても、無職の大人は趣味の場にも行きにくく、結果ひとりでやる趣味ばかり増やすことになる。

ときどき、Twitterであっても会話や社交の距離感が程よくてすばらしいなあと思う人がいて、観察して真似てみようとするが、うまくいかない。一度くらいでとてもこれは続けられないと思ってしまう。その一瞬だけものすごくテンションの上がった人みたいで、我ながら不気味だ。(こっそりここに書いておきますが、ブンゲイファイトクラブで落選した作品が次々とタイムラインに公開されていたとき、数作にリプライで感想を述べ、作者と交流してみようとしましたが、すぐ無口になってしまいました)

わたしの社交スタイルは待ち伏せ型なんである。このように日記を書いたりTwitterで勝手に呟いたりして、誰かが反応してくれるのを待つ。しかも来てくれた誰にでも飛びつくほどの素直さはなく、ちゃっかり選り好みしている。うわああ、こう書いていると本当に気持ち悪い人間だな……。

よく不機嫌でいても格好がつくのは若いうちだけなどと聞くが、社交が苦手〜とか言っていてもある程度人間関係をやらせてもらえるのも若いうちだけだなと思う。中年になったらあっ、苦手でしたらいらしていただかなくて全然構いませんよと放っておかれる。さらに、社会的にわたしのような立場の人間は「いないことになっている」ので、自分からいますいますと手を挙げるしか道はないのだった。わたしのような立場というのは、結婚している・アラフォー・女・無職・子どもはいない・病気でもない・介護もしていない、という立場である。今、こういう人間は絶滅危惧である。ものすごくセレブな家庭にはいるかもしれないが、そんな人間とわたしはそれこそ接点がないのでいないも同然だ。

「大卒無業女性の憂鬱」という本がある。ちゃんと全部読んだわけではなく、自己責任と叱るような内容なんじゃないかとおそるおそる拾い読みをしただけなのだが、ここで問題として論じられている女性は未婚で無職の人間であって、既婚者は話題にされていない。女性は既婚であるだけで無職が一転、ステータスのように捉えられてしまい、ご主人の収入がさぞかしおよろしいのでしょうから悩みはないですよねと「恵まれていること」になって問題視されないのだろう。実際、未婚の大卒無業女性のように貧困に喘いではいない。たぶん男女逆だったら、おそろしく非難される(不平等ですね)。専業主夫だって子どもがいるひとしか聞いたことがない。「働きたいのに働けない」ではない人間に、現代社会は厳しい。

いまや結婚しただけで仕事を辞める女はほとんどいない。いまだに女性だからと差別されてマミーズトラックとかガラスの天井とか問題がたくさんあるにもかかわらず、同年代の女性はみんなとても粘り強く、経済社会で生きている。周りを見てもわたしぐらいなんですよ、こんな状態なのは。性差別に興味のない人、むしろ賛成してる人なんじゃないかと思われそうな状態(実際、やっていることは加担なのかも)だが、そうではなく、うっかり人生の岐路で選択を間違え、戻れなくなった人なんです。自分の人生が丸ごと恥ずかしい。

働きたいわけではないですが、社交をもうちょっとしたいので働くしかないんでしょうか、でも働くのって皆さんつらそうですよね、いまはお金に困ってないからまた明日でいい? というのを十年くらい続けている。働きますって言ったところでもうなににも雇われない可能性のが高いだろう。大学卒業したてはできるかもしれなかったデザイン業を今からやろうとしても、営業もできず、見出してもらえるような実力も、先輩や友人から放っておけないと手を差し伸べてもらえる愛嬌も、一からやり直すぞ!という気合いや体力もない。

卒業後にちゃんと働いてきた同級生たちには、今や後輩や部下を持ったり独立して従業員を雇ったり、あるいは子育てという形でなんらかの自分の後進を「育てる」ことをしている人もいる。自分が自分がという年齢ですらないのである。あとから来る者を導き、お手本になるべき年齢。

こうあるべき年齢なんてないとみなさん言うでしょう。でも実際は自信を持てず、どこの仲間にも入りにくすぎて寂しいので、ある程度の社会のそれなりについていけばよかったと後悔している。あるいは無職なら無職でもいいから、いっぷう変わったおもしろい人生の人でありたかった。

わたしは現代社会の女性を鋭く書いたと話題の小説などをいくら読んでも、「これはわたしのために書かれたものだ!」という気持ちになれない(だから人間じゃない者が出る小説やSFやファンタジーばかり読む)。「いないことになっている」人だし、「いることはいるんだろうけど書いても一等つまらない」人だから書かれないのかも。だったらわたしが書くといいのではないか。わたしが現代社会で完全にたった一人の立場というわけでは、さすがにないだろう。でもそれも、「わたしこんなに辛いの!」というだけの小説にしたいわけではない。もう何年も温めている考えで、一文字も書いてやしないのだが、未来の自分に期待をこめてここに書いておく。