ラグ探しの人件費・所感もれ

今期の秋冬は一着も服を買わなかったので、そのぶんラグにまわすつもりでネットサーフィンしていたが、3時間半も悩んでまだ決まらない。しかもこの3時間半だけではない。過去数年分のラグ探し回り期があり、今日やっとオンラインショップのカートに入れたり出したりした3時間半なのである。

誰のエピソードだったか、数分で描いた絵で何十万というギャラをもらおうとするので抗議したら、「これは数十年のキャリア+数分で描いた絵なので妥当な金額だ」と言い返した絵描きがいたそうだが、それと似たようなもので数年+3時間半のラグ探しにかかったわたしの人件費は相当なものである。それに比べたらどのラグも破格! と自分に言い聞かせている。がなかなか決済の勇気がわかない。そうこうしているうちに数日が、数ヶ月が、半年が、数年が経ち、趣味が変わってしまったりする。

 

今日、散歩中に用水路のそばを歩いていたら、ほんの一歩のところにムクドリがいるのに気がついた。口に緑色の大きなバッタを咥えている。そこで獲ったばかりでこの場で食べたいみたいで、わたしを気にしながらも飛び立とうとはしない。あまりに大きなバッタだったので、つい「ご馳走だねえ」と声に出てしまった。は、と周りを見回したが誰もいない。

最近、外で一人でいるときにふとした所感なんかを口にしてしまうことがある。誰かに話しかけるつもりでもなく、言葉にして発声するつもりもなかったのに、隣に人がいたらちゃんと聞き取れるくらいの声量で漏らしてしまうのだ。たとえばしんとした美術館の絵の前で、たとえば店の陳列棚の前で、「そんな」「やばっ」「ないな」そういう言葉がポロリと出てしまう。すぐに気づくことは気づき、恥ずかしくなるが、どうも口が緩んでいるらしい。尿もれみたいなものだ。なんかの筋力が衰えているんだろうか。家で一人のときに独り言が多いかというとまったくそんなことはなく、外に出たときだけそうなるのでちょっと困る。家にいればすぐトイレに行けるからたいして緊張していなくて、それがかえって尿を止めとく筋肉の作用を正常にするが、外出先にかぎっていま漏れたら嫌だなという邪念が沸き起こるから、尿止め筋も調子が狂って変なときに力を抜いたり込めたりしちゃって漏れるのと同じだ(テキトーに言っています)。

あるいは人には独り言袋という袋があって、あまりに一人でいろいろ感じているとそれがいっぱいになりすぎて転がり出てくるとか。その袋(巾着状である)の口を縛るゴムがつまりは独り言を漏らさないようにする筋肉で、袋がパンパンだとゴムも切れる。まとまったことを考えているときは独り言袋には溜まらないが、単発の反射神経みたいな所感が溜まっていくのである。

なんだか眠くてこれ以上考えられない。

コーヒーテーブルとラジオ体操

去年のうちには終わらなかった、コーヒーテーブルのやすりがけとオイルワックス塗りの続きをやった。とうとうしんどいやすりがけは終わり、一度目の塗りまで完了して、終わりが見えてきた。しかし一年近くコーヒーテーブルなしで過ごし、なくてもなんとかなる生活が身についてしまった。むしろ、コーヒーテーブルを置くところで今はラジオ体操をしているから、戻ってきたらラジオ体操スペースが失われることになる。

ラジオ体操はいまのところ続けていられているので、ここで中断されるのは惜しい。最近ではラジオ体操の振り付け要素もコピーできるようになってきた。例えばラジオ体操第二で一番目から二番目の体操に入るとき、大きな羽で舞い降りたように指先を反らしつつゆっくり腕を下ろす仕草。体操と体操の間に振り付け要素は入れられており、お手本のみなさんもそこをおろそかにせず揃えているのだから、体操の一要素としてマスターするべきなのだ。

このようにラジオ体操を日々発見し、改良を加えていけるようになったのだから、コーヒーテーブルごときで習慣を台無しにしたくない。別の場所でやれば?と簡単に言うかもしれないが、ついたはずの習慣でも場所や時間、決まったやり方を少しでも変えてしまうと、一気に崩れ去ることがある。習慣は環境と不可分だ。

しかし、片面だけでもオイルワックスが塗られていい感じになっているコーヒーテーブルを見ていると、自分よくやったなあ、これを早く使いたい、という気分になってくる。ちいかわ風に言うと「心がふたつある〜」という状態だ。ちいかわに私淑する身としては、ちいかわならこんなときどうするかを考えるのがよい。

「心がふたつある〜」というセリフが出てくるのは、ハチワレとうさぎ(ふたりともちいかわの友達)がリサイクルショップで見つけた怪しい杖を振ったら、自分の欲しいものが出てくるのだけど、引き換えに体が大きくなったり赤くなったり目が増えたりして怪物になってしまう、そのとき杖を振らなかったちいかわだけが無事で、杖を折って助ける、というストーリーの中で、杖を折られそうになったハチワレとうさぎが「折ったほうがいいって思う、でも折らないでって気持ちもある」というときだった。ちいかわは欲に負けて化け物になったふたりを引き留めたわけだ。杖に関わらなければ自分の身には影響がなく、杖を奪おうとする怪物ふたりから逃げてもよかったのに、そうはしなかった。

さて、わたしは今、さんざんやりたくない面倒くさいでもコーヒーテーブルを買い替えるのはもったいないと逡巡した挙句になんとかやすりがけと塗り替えを終え、きれいなコーヒーテーブルという欲しかったものを手に入れつつある。いっぽうで、コーヒーテーブルが作業場に移動しているあいだに偶然できた空間でラジオ体操を始め、それがうまいこと続いている。なにかをどかしたり微妙なポジション取りをしたりせずに体を動かせるスペースというのは、家の中では貴重なので、これを失いたくない。

「心がふたつある〜」ストーリーに重ね合わせれば、魔法の杖で手に入れたものは偶然スペースができて習慣づいたラジオ体操のほうだろう。わたしはラジオ体操の習慣を捨て、コーヒーテーブルを置く。ハチワレは魔法の杖で出たカメラをその場では失ったが、あとで自分で稼いで手に入れることができた。わたしもラジオ体操の習慣を取り戻す試行錯誤をしよう。

見えない鳥・おみくじ・馬の話

近所の神社へ初詣に行く。途中で川のそばを通ると、河原にカメラを持った人が何人もいる。三脚を立てたり、長い望遠レンズだったりして、おそらく鳥を狙っているのだろう。そんなに珍しい鳥がいるような場所でもない気がしたが、珍しい鳥を撮影したいだろうと思うのは素人考えかもしれない。望遠レンズが差し向けられている方向を、こちらは裸眼で目を凝らしてみるが、なにがいるのかさっぱりわからなかった。

この神社には実は初めて来た。大きい神社でも周辺が観光地でもないが、車で来る人がいたり、お参りに列ができていたりと、人気のある神社のようだった。おみくじをひく。夫婦揃って末吉が出た。わたしの末吉を要約すれば「なかなか芽が出ませんが、辛抱して励みなさい」であった。しかし数年前に大吉が出たときの一年が最高だったか、さらに凶が出たときにそんなに悪いことがあったかと思い返してみると、そんなことはない。わたしは巷にある占いでも当たってる!と思ったことがほとんどなく、抽象的な話を自分の身に引き寄せて考えるのが苦手なのかもしれないと思う。

 

夜に馬刺しを食べた。部位が4種類あったのだが、どれがどの部位なのか書いていなくて、訳もわからずここは赤身、こっちはサシの入ったとこ、みたいな感じで適当に食べ、しかしどこもおいしかった。

たくさん食べすぎたのか、途中から顔が熱くなり、舌も滑らかになり、自分と馬とのエピソードをいろいろと喋りまくった。べつにお酒は入っていないのだけど、珍しい肉に酔ったのかもしれない。

わたしと馬とのエピソードというのは、実家が馬事公苑というJRAの公苑に近く、よく遊びに行って馬を見たこととか、大学で馬術部に入ろうかなぁと思って体験入部したら、最初から馬を走らせられたせいで尻が跳ねてあまりに痛く、さらに馬の世話は朝が早いのでやってられんと思ってやめたこととか、オーストラリアを観光したとき、馬に乗ってオーストラリアの大地を走るツアーに参加したところ、馬にナメられて薮に突っ込まれ、めちゃくちゃ噛んでくる蟻にたかられてたいへんな目にあったこととか、一度だけ府中競馬場に競馬を見に行ったら、金をかけているだけあって観客はみな本気であり、勝負がつくと怒声が怖いくらいだったこと、遠くを走っている馬は首から上しか見えず、頭はまったく上下させずに走るのでスーッと水平に滑っているようにしか見えなかったのが印象的だったこととかである。しゃべっているうちに馬とのエピソードがこうして次々と出てきて、饒舌に昔話を披露してしまった。しかもこういう話を、全部一気にではないが、夫と今までつきあっている中で一度はしたことがある。昔話を何度も繰り返すにはまだ早い年齢だというのにわたしときたら……。なのに、夫は前も聞いたよとは言わず、そうかいそうかいと相槌を打ってくれた。ありがたいことだ。

いろいろなそめ

一月一日はなんだかんだ言って気合が入ってしまう。

天文、ひいては宇宙と関係しているとはいえ、ただ人間が作った区切りであり、我が家の猫やトカゲは昨日と今日の違いなど意に介していないが、わたしは人間なので人間の作った区切りに右往左往する。そういうものへ反発する気持ちは五年くらい前に消えた。今では毎年、一月一日に気合を入れて一年の目標を掲げ、数ヶ月、あるいは数日で堂々と挫折し、人間というやつは…と自嘲している。

 

気合を入れて、読み初めとなる本を選んだ。

小説である。主人公がやりたかったことを中断してしまって自分の部屋に引きこもったが、イマジナリーフレンドと会話しながら偶然に導かれ外部と関わっていくという、ちょっと今のわたしと重ね合わせやすすぎる話で、これは当ててしまったなという気がした。フィクションに自分を仮託するのはあまり好きでなく、いや好きでないというよりそういうことをすると必ず絶望するから避けているのだ。それなのに早々に、自分と似ていると直感してしまう人物が出てくる小説を引き当てるとは。

この作者の作風からすると、きっとこの主人公はこれから順調に外へ出て行って、地味ではあってもいいように収まるだろうという予感がする。ところがわたしのほうはそう順調にはいくまい。現実におけるだいたいの渦中は、はじまりがわからないうちに巻き込まれて、終わりがわからないうちにどこか遠くに行っていると気づくもので、フィクションのように(ひとまずの)おしまい、の印が見えるようにはなっていない。

自分が溺れているときに、いい具合の助け舟を出されて救われている人物を見たら、たとえそれが実在人物でなくとも心穏やかにはいられないだろう。元旦からなかなかの突きつけられぶりだ。腹に力を入れて読む。

 

今日は火鉢初めもした。朝から一日中火鉢に火を入れていて、ときどき餅を焼いたり、するめを炙ったり、お湯を沸かしたりして、そばで猫を抱き、本を読んだ。スマホはほとんどタイムロックコンテナに閉じ込めて、違う部屋へ追放しておいた。あけおめLINEにはときどきかえしたが、あまり気を遣うやりとりも発生せず、よかった。こういう感じで毎日いられたらいい。他人の行動や発言をそのまま反映して、自分の行動を左右する愚を、今年はひとつでも少なくしていきたい。それが今年の抽象的な目標です。具体的な目標はまだない。

肉圧・紅白の楽しみ

一年間おつかれーの気持ちで、近所のステーキ屋に行った。チェーン店ではあるが、ふだんはステーキを外で食べるということもあまりないので、贅沢した感じがする。

チェーン店だからメニュー表は写真がふんだんに使われ、ページ表面がPP加工で、サイズも大きいものだが、めくった途端に隙間なくページにしきつめられた大きすぎる肉の写真がせまり、あまりの圧力に「ちかいちかい」と言いながら老眼のようにメニュー表を遠ざけて見た。メニューに載っている肉は実物より大きいのではないだろうか。紙が綴じてあるものをすべて本と呼ぶとしたら、今年読んだ本の中で、このメニュー表がインパクト、勢い、訴える力において最高であった。すごい本は油断しているときに不意に到来する。

 

テレビはほとんど見ないし日本のメジャー音楽全般に興味があるわけでもないのに、大晦日には毎年、紅白歌合戦を見ている。この一年、こんな曲や歌手が流行ったんですねえ、などといった新しい発見や、ごちゃごちゃした演出を楽しむ。

紅白でよくあるのが歌手が別の歌手のバックで踊るという演出だが、先ほどある演歌歌手が、他のバックダンサー役歌手たちが真面目に踊っている中、けん玉をしていておもしろかった。この演歌歌手はここ数年、舞台上でけん玉連続ギネスに挑戦しており、はっきり言って見ているほうとしてはハラハラしてまったく歌を聴いていられない。数年前はほんとうに失敗していて、テレビでは見たことのない雰囲気にホールが包まれていた。曲の中盤あたりで失敗してしまったが、けん玉失敗したから以降の歌はなし!というわけにもいかないし、歌手は頑張ってにこにこ歌い上げている。もうどういう気持ちで見ていたらいいかわからなくて困った。

今、紅白は前半が終わり、後半で今年のけん玉チャレンジが繰り広げられるそうだ。見届けましょう。

紅白でもっとも楽しみにしているのは実は終わったすぐ後にあり、紅白終了〜わ〜とやっているところでぶつりと静かになって、ゆく年くる年が始まる、その一瞬がいいのである。毎年、その切り替わりを、今年は何点だここがよかったイマイチだったなどと勝手にひとりで審査員をやっている。今年もやるだろう。

いろいろな反省

日記が間遠になっている。

日中、なにか出来事があってこれは日記に書こうと思うと、脳内で記述が始まる。目の前のいろいろを文章で描写し、思ったことをぼんやりした形から説得力のある言葉に置き換えようと試行錯誤する。一旦そこで日記はできており、そのままキーボードでなぞればできあがるはずなのだ。しかし脳内に書いてもう満足というか、見える文にするのがひどく億劫になって、そのまま寝てしまう。

 

せっかく公開している日記があるのだから、今年のふりかえりをやってみたい。

自分の仕事をずらりと書き並べたり、制作の軌跡を辿ったり、「買ってよかったもの10選」や「よかった本10選」をやったりしてみたいが、どれもパッとしない。パッとしないどころか、無と忘却でかたどられている。

仕事はない。それはそれですさまじくはある。夫の会社の年末調整で、毎年「無収入の証明」なる紙を提出しなければならず、「わたしは◯◯年に退職して以来、仕事をしておらず、収入はありません」と書かされたうえ、住民税が免税されている証明書をコンビニで数百円かけて発行し添付する。なにも感じてないような顔をしているが、けっこう屈辱的だ。

 

制作は……三月くらいに、積んだ本をプリントしたTシャツなどをsuzuriで作った。Twitterで宣伝したらわたしにしてはたくさんRTといいねがついた。さて、売れたのは一枚である(買ってくださったかたありがとう)。小売をしている人が、いいねやRTは購買数にまったく相関がないと言っていたが、ほんとうだと思う。

九月か十月に「ブンゲイファイトクラブ3」に原稿用紙6枚の短編小説を応募し、落選した。小説は新作ではなく、数年前に書いたものの改稿だったので、書いたぞという気はしなかった。初回のブンゲイファイトクラブのベスト4のうち、二度目の出場がないのはわたしだけとなった。なにも感じてないよう(略)、けっこう惨めだ。実力が証明されたんだなという気がする。

十月から十一月にかけて、急な思いつきで「テクニカルイラストレーションの鑑賞」と題して身の回りのテクニカルイラストレーションを切り抜き、コラージュを始めた。八枚くらい作って、中断となった。なにも感じて(略)、けっこう情けない。

同時期に、むかし作っていた豆本のブローチの作りかけを発見し、完成させてまた売ろうかなと魔が差したが、制作日誌まで初めておいて、四日間くらいしかやっていない。もちろんひとつも完成していない。なにも感(略)、けっこう自分に呆れている。

十二月はTwitterで「#いろいろなアドベントカレンダー」をつけ、1ツイートのお話を毎日書きたかった。実際は十七日分くらいしか書けなかった。数年間、十二月にはやっていることだが、今年は面白いものも書けなかったなと正直思う。なに(略)、けっこうしょんぼりしている。

そういえば九月の終わりからこの日記を書き始めた。順調に毎日書いている数週間もあったが、最初に書いた通り、年末になって間遠だ。(略)、いい加減にしたい。

 

買ってよかったものは覚えていない。そういうことを書きたかったら、一年を通してメモしておかないと書けないだろうなと思う。最近買ってよかったのは、スナイダーズのプレッツェルハニーマスタード&オニオン味)12袋セットである。いつ食べてもおいしい。

ちなみに買って失敗した最大のものはドラム式洗濯機だった。まだあいつとは和解できていない。

 

よかった本10選、それくらいはやりたかったが、たぶん今年、十冊も本を読んでいないのではないかと思う。

こんなにないないづくしで日頃、自分はなにをやっているのか不思議になってきた。無為にすごし、社会や他人に影響や益を与えない生活は、自分が小さくなっていくように思える。出ていけるドアも立てる舞台も、外部との交流も減っていく。共感できること、おもしろいことも減る。TwitterのTLでも目が滑る。あんまり凝視していると、妬み嫉みで苦しくなるから、滑りがいいほうがまだ楽だ。

来年はなにかできるだろうか。計画、進捗、報告、宣伝。わたしもそういうもので毎日を埋めたい。

サンタクロースになる・フィクションで泣く

昨晩のうちに、夫が寝ているのを確認して、枕元にプレゼントを置いてみた。こういうことをするのは初めてで、いままで幾度とプレゼントの交換はしてきたが、朝起きたばかりの人がプレゼントだ!と喜ぶのを見れるのはなかなかいいものなんだなあと思った。これが大人相手ではなく自分の子どもだったら、確かにさらに嬉しいのかもしれない。

なにをあげたのかというと、ちいかわのぬいぐるみ、Tシャツ、ヘアバンドである。ちいかわに大ハマりしている夫がぬいぐるみ買おうかなあ、と悩んでいたのでちょうどよくクリスマスじゃんと思ってそれにした。夫は万年坊主頭なので、ヘアバンドであげておく髪もないのだが、筋トレのときに汗止めとしてヘッドバンドをつけるそうで、代わりにハチワレになれるヘアバンドをつけておいたらかわいかろうと思った。しかしちょっとギャップがすごすぎる。わたしがもしトレーニングルームであれをつけている夫を他人として見かけたら、こっそり二度見ののち、なるべくそちらを見ないようにするだろう。夫としてもさすがにこれをつけてベンチプレスで高負荷をかけるのは恥ずかしい気がする、と思ったらしく、夜寝るときのアイマスクがわりにするわ、とのこと。

 

わたしも夫が買ったちいかわのコミックスを借り、最初のほうは全然知らなかったので新鮮な気持ちで読んだ。今月はPMSが泣き上戸方面に発達しているらしく、読みながら嗚咽を漏らすほどの勢いで何度か泣いてしまった。わたしはふだん、フィクションではまったくと言っていいほど泣かない。なのにこの込み上げる切なさはなんなんだ。草むしり検定のくだりでは、ちいかわのような行動は誰にでもできることじゃない、自分より後から始めた人があっさり自分を抜いていったのに、腐らないばかりかお祝いして、その人に教えすら乞う、こんなにちいさいのに人間(?)ができている、すばらしすぎるうぉぉいうぉぉいと涙を流した。わたしはどんなに感動的な(と言われている)ストーリーに触れても、ほろりくらいの涙で終わるのが常なのに、自分でも自分がよくわからない。涙を拭い、鼻をかみ、1巻のカバーを外してみたら、表1と表4を使ってちいかわとハチワレが「また遊ぼうねえ」と読者のわたしに向かって手を振り、別れを惜しんでくれているではないか。わたしは再び、おうおうと泣いた。今もこれを書きながら僅かに涙ぐんでいる。