落選・展望

原稿用紙6枚で応募していた小説が、あえなく落選した。不思議だが、去年よりずいぶん気楽だ。一度出場しているから、あの場所でどのような嵐が吹き荒れるか、わかっている。それを何度も経験したいと思って三年連続応募してしまうのは、嵐で苦しくても、それ以上に短期間でたくさんの人に読んでもらえて、しかも多くが反応を示したり感想をくれたりするのが気持ちいいからだ。もし落選しても、なにもない時に同じ小説を急に公開するより、ずっと多くの反応がもらえる。

創作している人の多くは作品への反応に飢えている。下世話に言うと、いつも褒めてもらいたくてうずうずしている。この公募が数多ある公募と違う点はいくつもあるが、特に恩恵を感じるのがこの「反応」である。作品に反応する人たちも、作者の多くが反応へレスポンスをくれたり、周りからその「反応」ひとつさえも注目されることがあるから、ますます盛り上がっていく。普段からTwitterを見ていても、作品の力とは別に、作品について言及した人へのレスポンスのいい作者は人気者になれる傾向がある。Twitterで人気者だからといって必ず本などが売れるわけではないかもしれないが、可能性はある。

しかしそれでも、反応の多寡はあり、そこが苦しむ場面でもある。比較、嫉妬、疑心暗鬼。それらを隠せない人もおり、よくわかる苦しみなだけに見ていられないような気持ちになることもある。

落選するよりも通ってしまった人たちのほうがある意味、地獄だ。観客席には屋根があるし座ることもできるし誰も見ていないうちに退出もできるが、リングは常に嵐に巻かれており、戦いどおしだ。

それなのに人の反応が欲しくて、反応をもらえたことに味をしめて、一度入れてもらったコミュニティから抜けたくなくて、応募してしまう。もう、いい小説を書きたいなんて動機はどこへやら。ただ自分を見て欲しいという欲を叶えるために、小説を道具にしているだけだ。100%これだけではないけれど、この感情がゼロとは言えない。

去年、落選したときに、一種の恥を感じたのは、誰かをガッカリさせたんじゃないかと思ったからだ。その前に出場したわたしに期待をかけてくれている人がいるんじゃないかと。やっぱりあいつがここまで勝ち進むのは分不相応だしただの運だよな〜と思われているに違いないと疑心暗鬼になり、それを一年越しに証明してしまった、と恥ずかしくなった。もうその時点で小説自体はどこかにいっている。自分が書いたものの内容へ少しも意識を分けていない。ただ人間関係をやっているだけ。

他人がどうお思いかなど、考えるだけ無駄。コントロールしようとするなんて徒労。小説を書きたいなら小説を書き、書きたくないなら小説を道具にするのはやめよう。コスパが悪すぎる。

 

今日は上記の公募結果への他人の一喜一憂や、落選した他人の作品を読むのに忙しくて、日常生活をぐちゃぐちゃにしてしまった。誰もわたしに対して強制力がないから、すぐこういうことになる。

もう観客席で適当に楽しんだり応援したりしてればいいのだ。気楽だ。無責任に感想を言い、あるいは言わず、歴史の勉強をしたり、小説とは関係ない創作を存分にしたり、小説ももちろん書きたい。