ベリー・翼・背反

ランナーを伸ばしまくって遠くまで出張に行っているワイルドベリーをいくらか抜いた。地植えをすると広がりすぎて手に負えなくなるのでやめるべき、と言われているミント系たちが、なんでか知らないがうちの庭では弱々しく、徒長してはへたり、ワイルドベリーに地を奪われていた。

その後、別の場所にだがストロベリーの苗を植えた。

ベリーを抜き、ベリーを植えた。

こういう人間の意図による庭も混ぜ込みつつ、勝手に生えてきた草木もある程度そのままにし、わたしたち人間の作為を庭の生態系の一部として何十年と育みたい。

 

自分に翼が生える想像が、不思議と浮かぶ期間があった。

十年以上前だったと思う。

肩甲骨が肥大して背中をつき破る。肩甲骨の背骨に近い角の部分が、鳥の翼の大きく折れているところになるイメージである。血が出たり痛かったりはしない。羽の色は白である。

こういうイメージが生活していて脈絡なく浮かぶ。

陳腐だが、今いる場所から飛び立って自由に活躍するわたし! みたいなものを欲していたのだと思う。

さて、実際飛び立てたのかというと、そういう自分からひねり出した大きな力による変化といったものはなかった。環境や考え方は少しずつ変わったが、自分の意志で変えたわけではない。社会や周りの人間から影響され、流れていって今ここにいる。

正直に言えば物足りない。わたしの年代(1982年生まれ)の大多数、自分をこの年代の「普通」と思っているだろう人々と比べても、たぶん経験が貧弱な気がするし。

だからか、わたしはいつも自分をどこか恥ずかしいと思っている。そして恥ずかしいと思っていることを周りに悟られたくないとも思っている。見栄もはりたくないし、となるとなるべく人前に出ず、藪に隠れ住むようにして生きることになる。

藪に埋もれて、自分の翼を夢想する39歳。

山月記ってこんな話だったかも。

 

インディーの集まりや盛り上がりは、そこの一員になれると居心地よく楽しいと知っている。

そこから始まるということも。

でも躊躇するのはなぜだろう。ひとりでいなくてはと引き戻す声はどこから聞こえてくる?

すぐに依存してしまい、しがらみを編んでしまう自分を知っているからだろうか。インディーでも注目されない自分を発見したら辛いから?

誰も見ないで、みんな見て、ふたつに引き裂かれてキョロキョロしているうちに人生が終わってしまいそう。